昭和48年10月28日 朝の御理解
御理解 第87節
「腹は借り物というが、借り物ではない。万代の宝じゃ。懐妊の時は、神の氏子がわが胎内におると思うて大切にせよ。」
この御理解をこう頂いてみると、まあこれだけの事だ。それをまあ胎教という言葉で申しますね、子供が妊らせて頂いたら、お母さんが何時も美しいものを見たり、美しい優しい心になる事に務める事は、その子供にそう言う影響を与えると言う訳ですね、教祖様もそこん所を、神様の氏子がいうなら、神様が宿んなさったと思うて、大事にせよと言う事は、体を大事にいとうと言う事ではなくて。
矢張り心を大事にして行けと言う事だと思うです。その時分には胎教と言う事は言ってなかったでしょうけれども、そう言う事をこの時代に仰っておられるわけですね。ですから是はここまでの所でこの御理解は、だから女の方に対する特になら、結婚をして懐妊のおかげを頂いている人達にたいする、是はまあ御理解だ言う訳ですけれども、是を私は腹は借り物とこういう、言う事は私は腹と言う事は心と頂くべきだと思うのです。だからまあこりゃ新しい解釈新解釈です、ね。
この八十七節を新しい解釈で頂ますと、あの人は腹が悪いと言う事は、あの人は腹が悪いという事ではなくて、心が悪いと言う事なのです。私だん何食べたっちゃあたらん、腹がよかけんというような事はいうですね。だからその腹じゃないです。成程腹が丈夫だから何食てもあたらん。けれどもここでは矢張りあのう腹と心と言う事、私は信心を段々解らせて頂いて、神様に頂いたこのう肉体この体と、言うなら神様からの預かり物だと。だから体を無理に無体な事をしては相すまん。
昔の人達は例えば怪我をしても、神様あなたの体に、傷をつけてすみませんと言う様な姿勢で、神様にお詫びしたものです。ね。けれどもね、私はあの心がけだけは、私のものだと思うですね。体は神の肉体は神様からの御預かり物であっても、心は私自身のものだから、おかげのあるもなきもわが心とおっしゃる。吾が心自分の心、ね、ですからその心が、万代までの宝にもなれば、又はそれとは反対の事にもいうならば心一つです。幸福にもなれるお徳も受けられる。
心一で自分を苦しい思いをしなければならない。心一つで地獄いうならに行き、心一つで極楽に行くと言う事も言えるわけです。和賀心なんです。昨日椛目の中島さんが、朝の御祈念にお参りをして来てから、御祈念中に頂いておられる事、ある方がこう御祈念をしておられる。その方の頭がこんなに大きい。よくよく見るとその大きな頭が風呂敷包みの荷物になっとる。頭が荷物になっとるというお知らせを受けられた。
その方は大きな仕事もしておりますし、又はもうそれこそ非常に行き届く方ですから、あれもこれも自分の頭の中に一つに、例えば置いてあるとするなら、それは本当に頭の重い事であろう。大変な荷物になる事であろうとこう思うですね。頭が重いという時には、やっぱり頭に荷物が多すぎる時です。私は信心さして頂いて、あのー馬鹿と阿呆で道を開けとおっしゃるなんかは、そういう意味でもですね、もう私のようにもう馬鹿になってしまうておることだと思うですね。もう頭の中にもは何も置かないね。
ですから大変不自由な事は不自由な、テレビ一つ見ろうと思うても、まあこのこのボタンを押せば、テレビが映るという位は解るばってんが、あれを見ろうと思うて自分で解らん。お金なんかでも沢山数えよると間違うてくる。もう頭が馬鹿になってしもうておる もう第一考えようと思わない。それは本気になってテレビはこのチャンネルを回せばこうとああという位はと、覚えようと思うていない。
馬鹿になる事に努めとるのですから、だから私はそれは又別ですけれども、あのこうチラチラしよるとを、ちゃんと見とるわけです。その時は実際は見てないのですね。他の事を思うたり、考えたりする時そんな事がある。新聞なんでも見よってから、何を読んだか全然わからない事がある。それはもう頭を使おうとしないから、だから頭はます々馬鹿になって来る。ですから、どういう難儀な問題を持って来られても、難儀な事が自分の上に起こって来ても頭で考えないから実に楽である。
もうこれを一つ一つ頭で考えよったら気違いになるだろうと思うと言う様な事がある。それを頭に置かない。そしてどこに置くかというと心に置く。いわゆる人間の心を使わないという意味なんです。人間心というのが、頭に置く事です。それをなら、教祖の言葉を借りると、我情を捨てるという事になるです。我情という事は、自分の思いという事。この事ばああして、ああして、こうせんならん。こうしてああせんならんと思うとるだけで、それで頭は占領されてしまって他の事が出来ないというような事になる。
それを頭のよい人はもっともっと様々の事をいっぱい頭にいれておるから、いつも頭が重い。それこそ頭が荷物になっとるわけです。ね。そこでいうならば人情を捨てて、神情で生き抜くという事。神情という事は心の情という事をいわゆる神の情という事。神心という事にもなるでしょう。いわば心は万代までの宝にするもしないも、吾が心、心をいよいよ清める、美しゅうする。豊かに大きくする。そこに豊かなかげが受けられ、豊かな徳が受けられる。成程その徳が、あの世まで持って行ける。
万代までの宝なんでだ。それを例えばね、自分の心ですから、是だけは自分の物ですから、自分が大事にするより他にない。人が大事にしてくれるわけにはいかん。こればかりは。それを大事にしない。そこに人間の不幸があり悩みがあり悩みがある。火の車作る大工は居らねども、己が作りて、己が乗るなり、である。自分が火の車を作っておる。そして自分が乗っておる事にもなれば、なら自分の心次第で、いわゆる教祖は和賀心とこうおっしゃる。和らぎ賀ぶというものをです。
自分の心の中に頂いて行く、自分の心の中がいよいよやわらいでくる。自分の心がいよいよ喜びでいっぱいになる。その事を楽しみに信心するのがお道の信心である。成程万代までの宝になる事になるのです。まあ私のように馬鹿になっちゃいかんでしょうばってん、けれども頭で考える位つまらぬ神経を病むことはないです。私のように馬鹿になるなら誰か一人ついとかにゃでけん。東京までもとても一人では行かれまいと思う。だから何人もがついてくる。
又実際飛行場なんかに行っとってから、とても自分一人じゃ乗れんと思うです。はあもう時間を第一見てね例えば時間を見るでしょう。そして今後は外の又時間を見ようと、ちゃんとこっちの方を見よる時には、今見たばかりの前の方の時間なもう忘れとる。もうこれはもう本当に器用にそれが忘れられる事になっとる。ああ、先生時間ですよと言われた時に立ちゃよい。はあこれに乗んなさいという時にはそれに乗ればよい。さあここで降りますよと言われたところで降りればよい。
もう頭の中に一つも置てない、あるのは自分の心の中に神様の事だけしか思うていない、というようなおかげを頂いている。ね。そういう私は生き方がです、愈々自分の心を万代までの宝にするという事であると思うです。ね。心だけが自分のもの。だから自分のものなら、自分のもので愈々あるのですから、例えば自分のものと思うたら、それを研いたり、拭いたりせねばおられんでしょうが。
けどもそれこそ、何でもないものは研いたり拭いたりしよるけども、自分の物である、これだけは間違いなく自分のものであると思われるものが、私は心だと思う。その心を大事にする事を教祖は教えられる。それをしかも万代までもの宝にするもしないも、所謂和賀心である。夜も心配で眠られない。いわゆる荷物が頭の中にいっぱい。所謂自分の人情、人間心。信心をさして頂いて、段々熱心に有難く解らせて頂くと言う事は、この人情を捨てて行くこと。
いうなら、我情を捨てて行くことの精進です。これはもう我情を捨てるという事程、素晴らしく自分が楽になる事はないです。けれども、ああしたいこうしたいと思いますよね。やっぱり思うのは。けれども思うたら、その事を神様にお願いする。お願いするからもう頭は空っぽでよいのだ。それを自分がお願いをして、自分で頭の中にちゃんと持っておるから、頭が重たい。いわゆる信心が重荷になる。
いや、心配がそのまま重荷である。心配する心で信心せよと仰るのも、心配する心で信心するから心配がなくなる。頭が軽うなる。お取次を頂いたからこれで安心という事になる。いや右左はもう親先生まかせという心が生まれる。だから頭に置く事はいらん。そういうおかげを頂きたい。今日は腹は借り物という事をです、今日は腹という事を心というふうに聞いて頂いた。ここでは腹は借り物と教えておられますけれどとも、私は腹だけは所謂心だけは自分のものというふうに聞いて頂きました。
自分の物である事がわかったら、愈々それを大事に、尊いものにして行く努力がね、なされなければおられない事になってくるのです。そこから愈々豊かな、やわらいだ大きな心も頂けてくる事になる。勿論大きな豊かな心には、大きな豊かなおかげが頂けるという事と同時に、その心があの世までも持って行ける。いわゆる万代までもの、成程宝だというふうに今日は聞いて頂きましたですね。
どうぞ。